妙高級巡洋艦の2番艦那智は大正13年(1924年)11月に起工されましたが、完成は那智が同クラスの中では最も早く昭和3年(1928年)11月となっています。 そのため昭和3年12月の御大礼特別観艦式に参列させるために工事を急いだのですが、一部未成の部分も残っていました。 昭和3〜4年に相次いで竣工した妙高級各艦は第2艦隊第4戦隊を編成し、折から金剛級巡洋戦艦が改装工事に入ったため主力艦として太平洋に睨みを効かすこととなりました。 その後、那智を含む妙高級巡洋艦は兵装の進歩に合わせて2回の近代化改装を受け、砲戦能力の強化、水雷戦能力の強化、航空兵装、対航空兵装の強化などを図 り基準排水量も2割程増して13,000トンとなるなど戦闘能力を大幅にアップして太平洋戦争を迎えることになります。 開戦時那智は第2艦隊第5戦隊に属してフィリピン攻略を目指し、陸軍の輸送船団の護衛任務に就いていました。 作戦は順調に終了したもののダバオで妙高がB-17の爆撃を受けて損傷する珍事があり、旗艦を引き継いでいます。 そして、昭和17年(1942年)2月、ジャワ島攻略作戦に参加、日本の輸送船団を阻止しようとする米、英、豪、蘭の混成艦隊と砲火を交えることになり、これをスラバヤ沖海戦といいます。 この海戦で那智は僚艦羽黒と共に延々7時間に及ぶ砲戦、雷撃戦をおこない、2月27日蘭巡デ・ロイテルとジャワを撃沈し、さらに修理なって駆けつけた妙高、足柄の応援を得て英巡エクゼターを沈めることに成功しています。 ただしこの海戦では日本海軍は遠距離砲戦を展開したため命中率が極めて悪く問題になっていますが、この傾向は太平洋戦争が終わるまで続きます。 さて、この海戦の後、那智は北方艦隊とも言える第5艦隊に配され旗艦になります。 そして昭和17年(1942年)6月のミッドウェー海戦時には陽動作戦のアリューシャン攻略部隊を率いて4航戦の隼鷹、龍驤のダッチハーバー攻撃に呼応しつつアッツ、キスカ両島を無血占領したのです。 こうして悪天候、さらに不毛の北の孤島を巡る戦いが始まり、その中で起きたのがアッツ島沖海戦でした。 昭和18年(1943年)3月、アッツ島への増援部隊を護衛していた那智以下の第5艦隊は、これを阻止しようと哨戒していた米艦隊と遭遇したのです。当初 敵艦隊を、合同を予定していた味方と誤認した第5艦隊司令部は大慌てで戦闘開始を指令、こうして約2万メートルでの砲戦が始まったのですが、軽巡1、重巡 1と駆逐艦の敵艦隊に対し軽巡1、重巡2、駆逐艦と優勢な日本艦隊であったのですが、肉迫を怖れて遠距離砲戦に終始したためと、また、かなり早い時期に旗 艦那智が艦橋に敵弾を喰らい射撃方位盤が使えなくなってしまったためさらに命中弾が少なくなり、結局敵重巡ソルトレーク・シティに損害を与えながら撃沈す るに至りませんでした。 この消極的な作戦指導の故に第5艦隊司令官、細谷中将はその職を更迭されてしまいます。 この後昭和17年(1942年)7月のキスカ島撤退作戦の援護をした那智でしたが、一旦内地に戻り主砲の換装、電探追加、兵装追加などの工事を受け、志摩中将の基、レイテ沖海戦へと出陣します。 しかし、栗田中将の大和、長門などの戦艦を中心とした主隊と西村中将の扶桑、山城の別動艦隊との連携がとれず、遅れてスリガオ海峡に入った志摩艦隊は先行 していた西村艦隊がキンケード中将率いるアメリカ第7艦隊の戦艦部隊との激闘の末壊滅したことを知ると、一旦は突入を策したものの敵情をつかみ得ず、また 西村艦隊で大破して微速ながら退避していた最上と旗艦那智が衝突事故を起こしたこともあって無用の戦いを挑まず撤退したのです。 こうして傷ついた那智は一旦マニラ港に入港したのですが、昭和19年(1944年)11月に第18 タスク フォースの空母艦載機の空襲を受け、マニラ湾に脱出するも空母レキシントンのヘルダイバー、アベンジャーの爆弾、魚雷を受けて炎上、やがて三つに折れて横 転、沈没してしまい、その生涯を閉じたのです。 那智の喪失は妙高級巡洋艦ではこれが初めてでした。 こうして那智の生涯を振り返ってみると、能力を持ちながら指揮官に人を得ないで終わって行く無念さを改めて感じずにはいられません。 (要 目)最終時 基準排水量:13,000トン 水線長:201.70m 最大幅:20.8m 主 缶:ロ式艦本式重油専焼缶 12基 速 力:33.9ノット 航続力:14ノット 7,500海里 兵 装:20.3cm連装砲×5基 12.7mm 連装高角砲×4基 25mm連装機銃×10基 25mm単装機銃×28基 4連装発射管×2基