| 三式戦闘機 飛燕 | ||||||||
川崎は液冷エンジンを中心に戦闘機を設計してきました。 ただし、問題はやはりエンジン。 飛燕のI 型は甲、乙、丙、丁と4種類がありましたが、戦況の進展に伴い武装やエンジンなどの改良を行い、I 型甲、乙、丙、I 型甲は機首にホ103 -12.7mm機関砲2門、翼内に89式7.7mm機関銃2挺、乙型は甲型の翼内銃をホ103-12.7mm機関砲に換装、ホ103-12.7mm機関砲4門となりました。 しかし、重装甲の米軍機相手ではどうにも力不足で、丙型は翼内銃をドイツから輸入したMG151/20 20mm機関砲(マウザー砲)に換装、飛燕の弱点であった武装を強化したタイプでした(当時陸軍は20mm航空機関砲を持っていなかった)。しかし基本的には現地改修で約400機が改造されただけ、しかも激しい戦いの中の事ですから消耗も激しかったようです。 また、試作機時代に水戸飛行場でテスト中の飛燕は、折からのドゥーリトルの東京初空襲に際して梅川准尉機が要撃戦を展開、訓練弾をB-25Bに撃ち込み白煙を吐かせたというエピソードも持っています。後の2型も各務ヶ原でテスト中の機体でB-29迎撃に参加撃墜、撃破するという何とも因縁めいた一面もあります。 68戦隊、78戦隊が飛燕に機種改変されニューギニア方面に展開、1943年4月に実質的な初陣を飾り7月18日78戦隊でP-38を撃墜したのが飛燕の初戦果といわれています。 以後陸軍航空隊の太平洋の戦いのほとんどに参加し活躍しました。 台湾沖攻防戦、レイテ攻防戦では制空戦闘の他、艦船攻撃、特攻、特攻援護、基地防空と中戦としてあらゆる場面で活躍しました。 丁型は機首のホ103を陸軍初の20mm航空機関砲 ホ5に換装、翼内はホ103 2門とし、ニューギニアでの戦訓より核燃料タンクに防弾ゴムを装備したため燃料搭載量が減少してしまい、防火のため廃止されていた胴体内燃料タンクを復活させ、滑油タンクも改修され、その為重心位置が変わり胴体を延長してバランスを取りました。 丁型は主に本土防空戦に投入され、アスペクト比の大きな主翼と液冷エンジンが相俟って高空性能が良いため、高々度を飛来するB-29に対する要撃戦に活躍しており、特に小林戦隊長率いる飛行第244戦隊の敢闘は、体当たり特攻の震天制空隊の奮戦とともによく知られています。本土防衛戦では北九州地区で59戦隊が中部、阪神地区では55戦隊と56戦隊が、東京地区は244戦隊と18戦隊、教育隊ながら39教育飛行隊が活躍しています。 飛燕という名前は昭和20年に入ってから付けられた名前でそれまではサンシキセンもしくはロクイチと呼ばれていました。 さて、飛燕はさらに出力の強化されたハ140エンジンを搭載することになるのですが、ハ40でさえ手こずっているのにさらにパワーアップしたハ140がこなせるわけもなく、結果エンジンの生産は遅々として進まない状態が続いていました。 陸軍ではこうした状況から空冷エンジンを飛燕に搭載することを決定、三菱製ハ112エンジン、離昇出力1,500馬力を選定しました。
さて、五式戦闘機の最初の実戦装備部隊は、飛燕装備で本土防空を担っていた244戦隊で、20年5月には実戦可能状態になっていました。 明野のパイロットを中心とした第111戦隊や清洲の第5戦隊では、来襲した22機のヘルキャットに迎撃戦を展開、五式戦8機で攻撃し22機全機を撃墜し、当方は無傷などという一方的な戦果を揚げ、米軍をして“高性能新鋭戦闘機出現”と驚愕せしめたこともありました。 しかし、五式戦の生産数は378機とか。これではいかに高性能でも焼け石に水、結局刀折れ、矢尽きたのでした。五式戦は飛燕 I 型ベースのファーストバック型風防の甲型とII型ベースの水滴風防を装備した乙型が生産され、日本軍最後の傑作制式戦闘機として評価を受けるほど成功した機体となりました。 さて、以上で太平洋戦争に参加した単発戦闘機はお終いなのですが、日本陸軍には双発戦闘機があります。 最後に双発戦闘機屠龍のお話にしましょう。 |