三式戦闘機 飛燕
JT14 1/48 三式戦闘機 飛燕 I型丁 244戦隊 ¥2200
A3 1/72 三式戦闘機 飛燕 \700
さて、続いては陸軍戦闘機のもう一つの系譜、川崎航空機のラインを述べましょう。

川崎は液冷エンジンを中心に戦闘機を設計してきました。
九二式、九五式戦闘機などがそうです。
また先にもチョット書きましたがキ28はキ27、キ33と競争試作となり結果的にキ27が九七戦として採用されたもののキ28とは性能的に互角でした。
こうして川崎、中島が切磋琢磨して次々と名機を設計してきたのですが、川崎はダイムラーベンツDB601Aエンジンを搭載した二機の戦闘機の試作を命ぜられました。
一機がキ60で性格的には鍾馗と同様の重戦闘機、そしてもう一機が軽戦闘機的な(川崎では中戦闘機と言っていたとか)キ61でした。
しかし、キ60とキ61は基本的に同じような性能となり、より軍の要求に近いキ61が飛燕として採用されることになります。
設計主務者は土井武夫技師でした。
土井技師は翼面荷重だけでなく翼幅荷重をも重視する独特の理論を基に高アスペクト比の飛燕をデザイン、速度性能と軽快性を見事に両立させたのです。
また、軽量化を図りつつも充分の強度を持たせることに成功、飛燕の主翼は急降下からの引き起こしでもビクともしない頑丈さを証明、パイロット達の支持を得ています。

ただし、問題はやはりエンジン
今から思うと
何で?なのですが、残念ながら当時の日本の工業技術の水準は低くDB601Aの国産化エンジンハ40の鍛造のクランクシャフトの工作が上手くいかなかったのだそうです。
熟練工作員の頃はまだ良かったものの、動員の学生達が携わるようになるとどうしようもなくなってしまったのです。
とにかく工作機械に良いものがなかったのが最大のポイントだったようです。

飛燕のI 型は甲、乙、丙、丁と4種類がありましたが、戦況の進展に伴い武装やエンジンなどの改良を行い、I 型甲、乙、丙、I 型甲は機首にホ103 -12.7mm機関砲2門、翼内に89式7.7mm機関銃2挺、乙型は甲型の翼内銃をホ103-12.7mm機関砲に換装、ホ103-12.7mm機関砲4門となりました。

しかし、重装甲の米軍機相手ではどうにも力不足で、丙型は翼内銃をドイツから輸入したMG151/20 20mm機関砲(マウザー砲)に換装、飛燕の弱点であった武装を強化したタイプでした(当時陸軍は20mm航空機関砲を持っていなかった)。しかし基本的には現地改修で約400機が改造されただけ、しかも激しい戦いの中の事ですから消耗も激しかったようです。

また、試作機時代に水戸飛行場でテスト中の飛燕は、折からのドゥーリトルの東京初空襲に際して梅川准尉機が要撃戦を展開、訓練弾をB-25Bに撃ち込み白煙を吐かせたというエピソードも持っています。後の2型も各務ヶ原でテスト中の機体でB-29迎撃に参加撃墜、撃破するという何とも因縁めいた一面もあります。

68戦隊、78戦隊が飛燕に機種改変されニューギニア方面に展開、1943年4月に実質的な初陣を飾り7月18日78戦隊でP-38を撃墜したのが飛燕の初戦果といわれています。

以後陸軍航空隊の太平洋の戦いのほとんどに参加し活躍しました。
特にラバウルを中心としたニューギニア周辺でのソロモン攻防戦では68、78両戦隊とも苦しい状況の中戦い続け爆撃隊の援護、船団護衛、防空任務などに奮闘します。

台湾沖攻防戦、レイテ攻防戦では制空戦闘の他、艦船攻撃、特攻、特攻援護、基地防空と中戦としてあらゆる場面で活躍しました。

丁型は機首のホ103を陸軍初の20mm航空機関砲 ホ5に換装、翼内はホ103 2門とし、ニューギニアでの戦訓より核燃料タンクに防弾ゴムを装備したため燃料搭載量が減少してしまい、防火のため廃止されていた胴体内燃料タンクを復活させ、滑油タンクも改修され、その為重心位置が変わり胴体を延長してバランスを取りました。

丁型は主に本土防空戦に投入され、アスペクト比の大きな主翼と液冷エンジンが相俟って高空性能が良いため、高々度を飛来するB-29に対する要撃戦に活躍しており、特に小林戦隊長率いる飛行第244戦隊の敢闘は、体当たり特攻の震天制空隊の奮戦とともによく知られています。本土防衛戦では北九州地区で59戦隊が中部、阪神地区では55戦隊と56戦隊が、東京地区は244戦隊と18戦隊、教育隊ながら39教育飛行隊が活躍しています。

飛燕という名前は昭和20年に入ってから付けられた名前でそれまではサンシキセンもしくはロクイチと呼ばれていました。

さて、飛燕はさらに出力の強化されたハ140エンジンを搭載することになるのですが、ハ40でさえ手こずっているのにさらにパワーアップしたハ140がこなせるわけもなく、結果エンジンの生産は遅々として進まない状態が続いていました。
一方で機体の方は性能的にも米軍機を凌ぐものがあったため生産はドンドン進んで、各務ヶ原にはエンジンの搭載されない飛燕が溢れていたのです。

陸軍ではこうした状況から空冷エンジンを飛燕に搭載することを決定、三菱製ハ112エンジン、離昇出力1,500馬力を選定しました。
こうして全面面積の少ない液冷エンジンから面積の大きな空冷エンジンへの前代未聞の換装が始まります。
ポイントは後部胴体とカウリングのマッチングなのですが、フォッケウルフFw190Aを参考にカウリング後部に縦に排気管を並べ排気のジェット効果で後部の空気の流れをコントロールするという方法を採用、これが見事に成功したのです。
また、液令エンジンに付き物のラジェーター関係の装備がなくなったこともあって総重量が軽減されて、速度は若干遅くなったものの上昇性能は良くなり全体のバランスがとれ、さらに何より信頼性が大きく向上したのです。
こうして空冷飛燕は遅ればせながら1945年(昭和20年)に五式戦闘機として制式採用され、本土防空戦に投入されます。
正式採用された時期が土壇場だったため五式戦のみに愛称が付いていないのが残念です。

JT44 1/48 五式戦闘機 I 型 甲 ファストバック ¥2200 
JT38 1/48 五式戦闘機 I 型 乙  ¥2200

さて、五式戦闘機の最初の実戦装備部隊は、飛燕装備で本土防空を担っていた244戦隊で、20年5月には実戦可能状態になっていました。
飛燕で操縦技術を培っていた244戦隊は遺憾なく五式戦の実力を発揮、小林戦隊長にして
「キ-100をもってすれば絶対不敗」
と発言したほどでした。
その言葉とおり調布から知覧へ移動し特攻援護、本土決戦に備えて八日市に移動してからの防空戦闘で活躍しています。
その他、4戦隊、5戦隊、17戦隊、18戦隊、59戦隊、111戦隊、112戦隊など飛燕装備部隊、屠龍装備部隊などを中心に五式戦闘機に装備改変され防空迎撃戦闘に活躍、硫黄島から来襲するようになった米国軍の新型戦闘機P-51や艦載戦闘機グラマンF6Fやコルセアなどの大馬力とトップスピードを誇る戦闘機を相手に優位な空中戦を展開しました。

明野のパイロットを中心とした第111戦隊や清洲の第5戦隊では、来襲した22機のヘルキャットに迎撃戦を展開、五式戦8機で攻撃し22機全機を撃墜し、当方は無傷などという一方的な戦果を揚げ、米軍をして“高性能新鋭戦闘機出現”と驚愕せしめたこともありました。

しかし、五式戦の生産数は378機とか。これではいかに高性能でも焼け石に水、結局刀折れ、矢尽きたのでした。五式戦は飛燕 I 型ベースのファーストバック型風防の甲型とII型ベースの水滴風防を装備した乙型が生産され、日本軍最後の傑作制式戦闘機として評価を受けるほど成功した機体となりました。
返す返すもハ40の時期にさっさと液令エンジンを諦め、ハ112に換装していればと悔やまれます。

さて、以上で太平洋戦争に参加した単発戦闘機はお終いなのですが、日本陸軍には双発戦闘機があります。

最後に双発戦闘機屠龍のお話にしましょう。

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