A41/72  中島 四式戦闘機 疾風 @\700equiv="content-type" content="text/html;charset=x-sjis"> riku3
四式戦闘機 疾風
JT67 1/48  中島 四式戦闘機 疾風 \2000
A4 1/72  中島 四式戦闘機 疾風 \700
鍾馗の次は順番で言えば三式戦飛燕になるのですが、ここは中島の開発ラインということで、疾風を先に書くことにします。

疾風は誰言うともなくいつの間にか「大東亜決戦機」と呼ばれました。

そして期待通りの高性能を発揮して日本陸軍戦闘機の有終の美を飾ったのですが、これは戦後アメリカで高オクタン価の燃料を使ってのこと。
断末魔の日本では残念ながら良いガソリンが手に入らず、疾風をして大東亜決戦機たらしめることはできませんでした。

疾風は先の隼の軽戦闘機的性格と鍾馗の重戦闘機的性格を併せ持った中島戦闘機設計陣の最後の回答として設計されました。
設計の主務者は隼、鍾馗を手がけて経験豊富な小山悌技師でした。

この頃海軍では後に「誉」と呼ばれ、陸軍ではハ45と命名された小型軽量ながらも2000馬力を絞り出す画期的な中島製エンジンが完成しました。

栄の直径が1,150mm、約1,000馬力に対して、誉は1,180mm、2,000馬力、つまり寸法がほとんど変わらない状態で出力が2倍になったのですから機体側としてはこんなに嬉しいことはありません。
(しかし、結果的にはこれがつまずきの元。燃料の品質低下と余りに巧緻な設計故の加工の困難による精度の低下で持てる実力の半分程度の力しか発揮できませんでした。)

さて、中島の経験と高出力エンジンが組み合わさったのですから悪い戦闘機が出来るわけがありません。
こうして試作時代から疾風(むろん後の命名で試作時代から疾風と呼ばれていた訳ではありません。)の高性能は知れ渡り、先に書いたように誰言うとなく「大東亜決戦機」と呼ばれるようになっていったのです。
審査部の担当は岩橋少佐、およそ1個中隊程度の試作機をそろえて昭和18年春頃より審査が始まりました。
すでにこの頃から低オクタン価のガソリンによるエンジン不調と疾風に始めて採用されたラチエ式電動プロペラの不具合が出始めてはいたのですが、それはそれとして審査は充分に行われてゆきました。

しかし、中国大陸にP-51B ムスタングが出現、隼では太刀打ち出来ないことが判ったため新鋭戦闘機、現地司令官が疾風の派遣を要請してきたのです。

こうして飛行第22戦隊が編成され、昭和19年8月中国大陸戦線に投入されます。当時中国奥地から飛来する米9空軍のP-51やP-47に対抗させるためでした。隊長には審査部の岩橋少佐がそのまま親保されたのです。
大陸に展開した疾風は、P-51やP-47には十分対抗できることを証明し、防空、船団護衛、敵地進攻に活躍しました。22戦隊は各地から引っ張りだこの有様で、将に獅子奮迅の活躍を展開、一時的にもせよ制空権を中国大陸の米9空軍から奪回したほどでした

この活躍に米軍では1個飛行隊ではなくて「数個飛行隊が展開している」と勘違いをしたほどです。
しかし、当然この活躍は岩橋少佐にプレッシャーを掛けることとなり、任務完了直前、西安夜間攻撃に出撃した岩橋少佐は二度と帰還しませんでした。

疾風は就役したのが昭和19年ですから、当然最終章の戦いに身を投じることになるのですが、前述のオクタン価の低下と工作不良によるエンジンの不調などで満足する戦果を揚げるには至りませんでした。

疾風はフィリピン攻防戦や台湾沖戦に参加防空、制空、援護、特攻などに奮戦、続く沖縄戦でも防空、制空、援護、特攻、米国軍占領下の飛行場に対し夜間の「タ弾」攻撃などに奮戦しました。
同時に本土防空戦や朝鮮などでも防空に活躍しています、数少ないベテランパイロットに操られた疾風は長距離を侵攻してくるムスタングと互角以上の戦いを展開してその高性能を見せつけています。

疾風は昭和19年に制式採用されたにもかかわらず約3,000機が生産され、これは隼の5,500機についで陸軍機としてはNo.2、日本全体としてもトップの零戦約11,000機を筆頭にベスト3ですからいかに陸軍が疾風に期待していたかが解ります。

戦後アメリカ軍に接収された疾風はオクタン価120の燃料で時速650Km/hを記録し、日本軍最強の戦闘機と判定されたのは中島の技術陣にとっては最高の讃辞だったことでしょう。
しかしこの時、日本はすでに翼を失っていたのです