| 四式戦闘機 疾風 | ||||
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| 鍾馗の次は順番で言えば三式戦飛燕になるのですが、ここは中島の開発ラインということで、疾風を先に書くことにします。
疾風は誰言うともなくいつの間にか「大東亜決戦機」と呼ばれました。 そして期待通りの高性能を発揮して日本陸軍戦闘機の有終の美を飾ったのですが、これは戦後アメリカで高オクタン価の燃料を使ってのこと。 疾風は先の隼の軽戦闘機的性格と鍾馗の重戦闘機的性格を併せ持った中島戦闘機設計陣の最後の回答として設計されました。 この頃海軍では後に「誉」と呼ばれ、陸軍ではハ45と命名された小型軽量ながらも2000馬力を絞り出す画期的な中島製エンジンが完成しました。 栄の直径が1,150mm、約1,000馬力に対して、誉は1,180mm、2,000馬力、つまり寸法がほとんど変わらない状態で出力が2倍になったのですから機体側としてはこんなに嬉しいことはありません。 さて、中島の経験と高出力エンジンが組み合わさったのですから悪い戦闘機が出来るわけがありません。 しかし、中国大陸にP-51B ムスタングが出現、隼では太刀打ち出来ないことが判ったため新鋭戦闘機、現地司令官が疾風の派遣を要請してきたのです。 こうして飛行第22戦隊が編成され、昭和19年8月中国大陸戦線に投入されます。当時中国奥地から飛来する米9空軍のP-51やP-47に対抗させるためでした。隊長には審査部の岩橋少佐がそのまま親保されたのです。 疾風は就役したのが昭和19年ですから、当然最終章の戦いに身を投じることになるのですが、前述のオクタン価の低下と工作不良によるエンジンの不調などで満足する戦果を揚げるには至りませんでした。 疾風はフィリピン攻防戦や台湾沖戦に参加防空、制空、援護、特攻などに奮戦、続く沖縄戦でも防空、制空、援護、特攻、米国軍占領下の飛行場に対し夜間の「タ弾」攻撃などに奮戦しました。 疾風は昭和19年に制式採用されたにもかかわらず約3,000機が生産され、これは隼の5,500機についで陸軍機としてはNo.2、日本全体としてもトップの零戦約11,000機を筆頭にベスト3ですからいかに陸軍が疾風に期待していたかが解ります。 戦後アメリカ軍に接収された疾風はオクタン価120の燃料で時速650Km/hを記録し、日本軍最強の戦闘機と判定されたのは中島の技術陣にとっては最高の讃辞だったことでしょう。 |